京都のお菓子の歴史
京都は菓子発祥の地といわれています。
京都市左京区にあるお菓子の神社「菓祖神社」
菓子といわれるものの初めは原始時代の果物や木の実であり、果子(くだもの)といった。『古事記』の伝説の菓子は橘であるといわれており、田道間守は兵庫県出石街の中島神社に祀られ、日本の菓祖といわれている。その後6世紀になって仏教伝来とともに供物として大陸の菓子が伝わり、ここから菓子の歴史が始まることとなる。
奈良・平安時代の儀式など特別な際には、干菓子(松の実、干なつめ等)、木菓子(栗、橘、柿等)、そして唐菓子が用いられた。唐菓子は長安の点心がモデルであり、奈良・平安初期に遣唐使らによって日本に入ってきた。平安末期には消滅してしまったものも少なくないが、和菓子の原型となったものがあり、それが粽(ちまき)や、おこし、煎餅などである。
その後鎌倉期に抹茶が伝わり、室町期に武家社会で茶の湯独自の発展を始め、和菓子とお茶はかかわりの深いものとなる。当時の茶会の菓子は、柿や栗などの果物、餅類、煮しめなどで、利休がしばしば使った「フノヤキ」は小麦粉を水に溶いて焼き鍋の上で焼き上げ、片面に味噌を塗って巻いた素朴なものだった。
その後、南蛮人によって、“こんぺいとう”などのヨーロッパ菓子が伝わったが、南蛮菓子が日本の菓子となっていくのは、日本で糖が作られるようになった江戸中期以降である。
これ以降、菓子は京都で茶の味をひきたてる興味深いお菓子として、見た目も優雅に独特の発展を遂げたのである。江戸では蒸し菓子、干菓子、雑菓子が発達し、南蛮菓子は和菓子の一種としてとらえられ、江戸末期には古くからの日本の菓子と融合して集大成された。
一方、洋菓子の原型となったのもこの南蛮菓子であるが、洋菓子としてとらえられ始めたのは、明治維新後である。明治初年には輸入量・国内生産が大量に増加し、パン・ビスケット・チョコレート、洋酒入りボンボンなどはこのころから作られるようになった。
明治21年、現森永製菓がキャンデーの製造に着手、明治後期には日本初の板チョコを販売した。またそのころ不二家が開店し、デコレーションケーキやシュークリームを店頭販売している。戦争後、クリスマスケーキやバースデーケーキが大流行し、家庭に普及するようになり、昭和50年代には多様な菓子があふれるようになり洋菓子は大衆の菓子となったのである。